最終更新日:2018年04月26日
広田遺跡とは
国指定文化財 平成20年3月28日指定
広田遺跡は、種子島の南部、太平洋に面した全長約100mの海岸砂丘上につくられた集団墓地です。
弥生時代後期から古墳時代併行期の種子島では、日本本土と異なり、古墳や墳丘墓などはつくらず、海岸の砂丘に墓地をつくったのです。
この遺跡の調査は、昭和32年から34年にかけて国分直一・盛園尚孝氏らによって行われ、合葬を含む90ヵ所の埋葬遺構から158体の人骨が出土しました。埋葬された人骨を調べた結果、広田人は、身長が成人男性で平均約154㎝、女性で平均約143㎝しかなく、同じ頃の北部九州の弥生人(成人男性で平均約163㎝、女性で平均約152㎝)と比べても、極めて身長が低い人々であることがわかりました。また、上顎の側切歯を1本だけ抜歯したり、後頭部を扁平(いわゆる絶壁頭)にしたりする特異な習俗をもつことがわかりました。
これらの人骨は、奄美・沖縄諸島でとれる貝を素材とした貝輪や玉、幾何学文が彫刻された貝符や、竜佩形貝垂飾など総数44,242点にも及ぶ豊富で多彩な貝製の装身具を身につけていました。このような習俗・貝の装飾文化は、日本列島でこれまで他に例がありません。
平成17、18年には、南種子町教育委員会による発掘調査が行われました。その調査では、昭和30年代の調査で砂丘の南端でみつかった墓地(南側墓群)の範囲が、さらに西側に拡大することや、広田川に面した砂丘北端にも同時期の墓地(北側墓群)が存在することが新たにわかり、遺跡の範囲が拡大することがわかりました。
この調査で、南側墓群で11基、北側墓群で9基の埋葬遺構を確認し2,966点の貝製の装身具と92点の土器28点のガラス小玉、15点の石器が出土しています。
平成20年3月28日には、「列島の弥生、古墳時代社会と南島社会の接点における社会・生活のあり方を知るだけでなく、わが国の文化形成の多様性を知るうえで重要な遺跡である。」ことから、種子島で初めての国の史跡指定を受けました。
広田遺跡は、鹿児島県種子島の南種子町にある弥生時代後期後半から古墳時代併行期(3世紀から7世紀頃)にかけての集団墓地です。
この遺跡は、太平洋に面した砂丘に豊富で多彩な貝製品が副葬された人々が埋葬されていました。 調査の結果、90箇所の埋葬遺構と157体の人骨、総数44,000個に及ぶ貝製品が出土しました。
出土した貝製品の中には、南海産の貝を素材とした腕輪、首飾り、貝符等があります。これらの貝製品の形状や文様は、南島文化との関連性を示唆していますが、貝製品の中には広田遺跡特有のものも多く、広田遺跡の人々は南島文化を取り入れつつ独自の豊かな文化を形成していたと考えられています。