最終更新日:2017年09月11日
1.国史跡指定までの経緯
南種子町教育委員会は、文化庁・鹿児島県の協力のもと、平成16年度から平成18年度まで広田遺跡の学術調査を行いました。
そして、平成19年度には、発掘調査の成果を報告書にまとめ、文化庁に報告しました。
そして、平成19年11月16日、国の文化審議会は、広田遺跡を国の史跡に指定するよう文部科学大臣に答申しました。
その後、平成20年3月28日の官報告示によって、広田遺跡は国の史跡に指定されました。
広田遺跡は、種子島・屋久島で初めての国史跡となったのです。
2.国史跡指定となった理由
広田遺跡は、昭和30年に発見された弥生時代後期後半から古墳時代後期の墓地遺跡です
昭和32年から34年にかけて発掘調査が行われ、90基の墓、158体の人骨、44,000点以上の貝製品などが発見されました。
出土した貝製品のうち黎明館と国立歴史民俗博物館に保管されているものは、国の重要文化財に指定されています。
町教育委員会では、平成17年から18年に再発掘調査を実施し、いまだ多くの墓が残っていることを確認しました。
広田遺跡は、貝製品と人骨が良好に残っており、生活風習や埋葬習俗のありかたを知ることができる貴重な遺跡です。
さらに日本列島の弥生、古墳時代社会と南島社会の接点における社会・生活のあり方や、日本の文化形成の多様性を知るうえで重要な史跡であることから、史跡に指定されました。
3.広田遺跡について
広田遺跡は、種子島の南部、太平洋に面した全長約100メートルの海岸砂丘上に立地します。
1957~1959年度に、国分直一・盛園尚孝氏らによって最初の調査が行われ、合葬を含む90箇所の埋葬遺構から158体の人骨が出土し、成人男性が平均154.0㎝、女性で142.8㎝という低身長であることや、上顎片側の側切歯を抜歯する特異な風習をもつことなどがわかっています。
また、これらの人骨は、南海産の貝を素材とした貝輪や玉、幾何学文が彫刻された貝符や、竜佩形貝垂飾など総数44,242点にも及ぶ豊富で多彩な貝製の装身具を身につけていて、このような習俗・貝文化は、日本列島でこれまで類例がありません。
2004~2006年度には、この遺跡の保護を目的とした調査を行い、1957~1959年度に砂丘の南端でみつかった墓地(南側墓群)の範囲が、さらに西側に拡大することや、広田川に面した砂丘北端にも同時期の墓地(北側墓群)が存在することが新たにわかりました。この調査で、新たに南側墓群11基、北側墓群で9基の埋葬遺構を検出し、約3000点の貝製の装身具と92点の土器、28点のガラス小玉、15点の石器が出土しました。
1957~1959年度に調査された南側墓群は、同時期の他の墓地遺跡と際だって異なる点が多いことに対して、今回の調査で新たにみつかった北側墓群は、種子島の在地の墓制である覆石墓を主体とするなど、共通する点が多いことがわかりました。北側墓群の発見は、この遺跡の貝文化のルーツを探るうえで重要な鍵となるものです。
写真1 広田遺跡航空写真
北から撮影、手前の樹木の茂った砂丘が広田遺跡。
奥にみえるのは種子島宇宙センターのロケット発射場。